美容院

この世はあまりにも生きづらいものである。
鏡の前に立つこの男は、バロック時代の作曲家か何かであろうか。
いや、ただの寝癖である。
指揮者のように、何度も手ぐしを振るが、アンサンブルはまとまらない。
美容院に予約を入れるのは苦手だ。
その日の予約スケジュールを見せて欲しいと切に願う。
入れ替え時間に無駄がなく、お昼休憩も考慮した、美容師さんにとって都合の良い時間帯ならいつでも良い。
僕の予約が入ることによって、早く店じまいできるチャンスがなくなるのなら、来週にしてもらっても結構だ。
不思議なもので、あんなにいうことを聞かなかった髪々たちが、散髪当日になると、嘘のように聞き分けが良くて、実にスタイリングしやすくなるのが不思議だ。
パーカーを手に取るが、髪を切るのにフードが邪魔かなと思い、少し肌寒いがTシャツに着替える。
磁気ネックレスも外しておこう。
その美容院は、スーパーの駐車場の敷地内にある。 隣はコインランドリー。10分前に着くが、少し早いので、5分前まで車で待機。
待機してる姿は見られたくないので、美容院から一番遠い駐車場に車を止める。
今日は天気がいいからか、ドアを開けっぱなしにしているようだ。
店内には、椅子がふたつだけ。
ご夫婦で切り盛りするその空間は、いつもゆっくりとした時間が流れている。
8年前、地元のフリーペーパーで開店の知らせを見つけた。
オープン価格につられて一度だけのつもりで訪れたが、まさかそこから8年の付き合いになるとは思ってもいなかった。
僕は美容院を転々とするタイプで、シャンプーや追加オプションを勧められると通うのをやめてしまう。
結局お客としてしか見ていないのかと思うと、上っ面だけの会話が無駄に思えて、急に萎えてしまう。
こちらのご夫婦は、心地よい距離を保ってくれる。押し売りは一切してこない。
ご主人が、INFJだと聞いて、なんだか腑に落ちた。
「今日はどうします?」
「前回と同じで」と言いたかったけれど、それを覚えている前提で話すのは、自意識過剰な気がして、口をつぐんだ。
かと言って、注文を変える理由もない。
前回は、何も不満がなかったのだから。
カットモデルの写真でもみせてみるか?
いや、「髪型を変えても、この顔にはならないよ?」そう思われたら恥ずかしい。
(お前は何しにここにきたんだ?)
フリーズしている僕に助け舟を出してくれるご主人。
「前と同じ感じでいい?」
「すみません。」
反射的に、返事にならない返事が口をついて出た。
8年通ってこれである。この世はあまりにも生きづらい。
静かな時間が流れる。
髪が雑誌に挟まったら申し訳ない気がして、手に取るのをやめた。携帯を開いたところで、何ひとつ頭に入ってこないだろう。
目の前の間抜けなてるてる坊主に目をやる。
美容院の大きな鏡に映る自分は、なぜか好きになれない。すぐに視線を外し、右斜め下45度のコンセントをじっと見つめる。
二つの穴が、少しずつ重なって、一つに見える。
ふと、切り落とされ髪の毛が一本、はらりと下唇に落ちた。
美容師さんは気づいていない。
気づかれないように、そっと、それを口の中へ隠す。
この世は、あまりにも
生きづらい。